・この問題がここまでの学びを踏まえた応用問題であるという意識で解く。
・「社会正義」がソーシャルワークの原理であることについて丁寧に考えてみる。
問題117 事例を読んで、P市社会福祉協議会のKソーシャルワーカー(社会福祉士)によるソーシャルアクションの実践として、適切なものを2つ選びなさい。
〔事例〕
Kソーシャルワーカーは、以前から面識のあったLさん(32歳)から相談を受けた。Lさんの同性のパートナーであるMさん(35歳)が、残業が続くつらい日々の中、職場で倒れて病院に救急搬送され、緊急手術を受けた。Lさんは、すぐに病院に駆けつけ面会しようとしたが、病院からは、「家族ではないため面会はできない」と伝えられた。「自分たちの関係が社会的に認められず、何かあったときに助け合うこともできない」とLさんは涙ながらに訴えた。Kソーシャルワーカーは上司と相談し、LGBTへの偏見や差別を解消し、地域住民の理解を深めるために、支援を行うことにした。
1 地域住民の反発を避け、円滑に医療を受けることを優先し、まずは病院の規則のとおりにするようアドバイスをする。
2 LGBTを支援する団体と連携し、同じような経験をした人の意見交換の場をつくる。
3 病院内の退院支援に向けたカンファレンスに参加し、Mさんの今後の地域生活で必要な医療的ケアについて検討する。
4 Mさんの職場に対し、長時間労働が常態化する職場環境の改善を求めて交渉する。
5 他市の「同性パートナーシップ証明」発行の取組について、地域住民を対象とした学習会を開催する。社会福祉士国家試験 第33回(2021年)より解説
「相談援助の理論と方法」は「相談援助の基盤と専門職」とあわせて考えてみましょう。この二つの科目で、「相談援助」(=社会福祉士及び介護福祉士法において、社会福祉士の業務として一言でまとめられた言葉)に特化して、28問も出題されるわけです。ただ、ここまで見てきたように、28問もあるからこそ、ソーシャルワークの「基盤/理論」(=抽象)から「専門職/方法」(=具体)までを、分断することなく連続的にとらえられるよう、しっかり論理的な流れを問題作成者が作ってくれていることがわかります。(そもそも、この二つの分断を嫌うのが今日のソーシャルワークだってことは、問題98あたりを筆頭にして一貫して確認してきたとおりです。)
社会福祉士国家試験は、五肢択一という一見すると暗記を問われるデジタルなもののように思われますが、問題作成者とのコミュニケーションを成立させるというルールのもとで行われるゲームです。そうである以上、相手の想いに寄り添って適切な選択肢に絞り込んで○をつけてあげる、そんな態度が問題を解く前に求められます。いや、そこさえ勘違いしなければ、社会福祉士国家試験の150問は10割正解は行かずとも、ちょっと工夫をすれば6~7割の正解は導けるのです。それは、日常のコミュニケーションと同様で、10割の正確な理解を目指して流れをその都度折るよりも、6~7割程度の理解で流れを切らずに回すことのほうが求められているのと同様です。そこで大事なのは何より「流れ」に気づくことです。そして、社会福祉士国家試験では、その流れを作っているのが「ソーシャルワークという見方」なのです。
なーんてことを踏まえ、「相談援助の基盤と専門職」「相談援助の理論と方法」の28問の最後の2問は、ここまで学んできたソーシャルワークを踏まえた応用事例の問題という位置づけになることは明らかです。
ということで、「相談援助の理論と方法」の免許皆伝は最後の二問にかかっています。丁寧に丁寧に解いていきましょう。
事例問題ですので、簡単だからと「何となく」「世間の常識」で解くのではなく、いつものように事例問題の解き方を使って、丁寧に解いてみましょう。
大前提:〇はつけない。選択肢につけるのは×か△のみ。
①まず、100%まちがいといえるものだけに×をつける。
※1%でも可能性があれば残す!
②残った△の選択肢から、優先順位1位の選択肢に〇をつける。
(優先順位は問題文から読み取る:原則は「事例の後、早くやる順」)
①100%間違いの選択肢にだけ×をつける
100%×のものは何ですか?あくまで100%ですよ。この事例を考えるにあたって、少しでも可能性がある選択肢なら残すんです。
絶対×といえるのは?私は、選択肢1のみ×としました。
これが×の根拠は何ですか?100%で×なんだというためには、その根拠をしっかり明示できなければなりません。もちろん、それはソーシャルワーカーとして100%明らかにおかしいものについては、ソーシャルワーカーの観点を説明したうえで、そのおかしい根拠を誰にでもわかるように伝える必要があるのと同じです。
選択肢1が×の根拠は何ですか。
その根拠を考えるにあたって、事例以前にソーシャルワークの見方・考え方を改めて整理してみましょう。
<事例以前に考えるべきこと>
それもすでに前の問題でやっています。まぁ、いろんな問題でやってはいますが、そうですねぇ、わかりやすいものとしては、問題32「地域福祉の理念・原則」を上げてみましょうか。
選択肢1の「まずは」という言葉の意味は何ですか?「その選択を最優先にする」ということを示す言葉です。
では、「まずは」という言葉が最優先としている、この選択肢1でいう「その選択」とは何ですか?「病院の規則のとおりにする」ということです。もちろん病院の規則に沿うことそのものが間違いではありません。ここで大事になるのが、どんな理由によって、「病院の規則」に従うことを最優先にするか、そこです。それそこが根拠です。
では、その根拠は何ですか?「地域住民の反発」です。では、地域住民から反発があれば、最優先で「病院の規則のとおりにする」よう勧めるのがソーシャルワークの見方ですか。
もちろん違います。このような選択を最優先とするのは、ソーシャルワークの見方によるものではなく、日本社会における世間一般にみられる対応です。
では、日本社会では、なぜそのような選択が最優先にされるのですか?それは、日本社会では何よりもまず「世間」が最優先にされ、その結果として、個人の行為における最優先の原則が「人様に迷惑をかけない」ことだからです。
世間一般からズレているとレッテルを貼られた人は、人様に迷惑をかけない限りで、世間一般で生きることを許される。そんな見方・考え方が、いまだに日本社会に、よくも悪くもはびこっています。
なぜ、そんな考え方がいまだにはびこっているのでしょうか。
世間一般に合わせることをよしとするような、そんな教育が小中高と50年以上一貫してなされてきた結果、まじめに学校に通い、学校で先生に評価されることを良しとし、そこに合わせて自分を作り上げてきた、そんな人たちがマジョリティになっているからです。
そんなマジョリティにとって、世間との違和を過大に語って個人の都合を優先するような要求する、そんなマイノリティは許せない存在であり、「自分はこうして個人の都合を我慢しているのに、ふざけるな」という感情を抱いてしまうからでしょう。
そして、そんな社会を良しとする、そういう立ち場ももちろんあるでしょう。そうやって、日本社会は「世間(=マジョリティ)」にマイノリティが合わせることによって、社会は秩序化し、無難に回っていくのですから。
ただし、ソーシャルワークはそれ、つまり「マイノリティが世間という名のマジョリティに合わせる秩序観」を「良し」とは考えません。なぜですか?
「えー、そりゃ社会福祉なんだから当たり前じゃないか。『なぜ?』なんて問うのはおかしいよ」という人へ。
そんなあなたは「ソーシャルワークだから正しい」「社会福祉を冠する専門家だから私は正しい」と思い込んでいませんか?
私たちは、「世間(=マジョリティ)」にマイノリティが合わせることによって、社会は秩序化し、無難に回ってく、そんなあり方を良しとする、そういう見方もあるし、そういう立場の人もいるし、そういうことを良しとする社会科学的な立場の人だっていることを、ここまで確認してきました。にもかかわらず、「私は社会福祉士だから正しい」などという態度のままで、ソーシャルワークがなぜそのような立場を良しとしないのかについて一切考えなず、「ダメだからダメ」というだけでは、科学的態度とは言えません。
社会福祉士はソーシャルワーカーです。そして、ソーシャルワーカーがよって立つ「ソーシャルワーク」は社会科学なのです。というのが、社会福祉士国家試験の立ち位置です。
※もちろん、「社会福祉士の中には、ソーシャルワークは社会科学なんかじゃなくて、ソーシャルワーカーとは臨床家であり、科学なんてもので基礎づけられるもんじゃない!」という立場の人もいるでしょう。そしてそれを否定するつもりはありません。あくまで、私たちは今、社会福祉士国家試験からソーシャルワークを学んでいるので、社会福祉士国家試験の立ち場を確認しているだけです。
もう一度問います。
なぜソーシャルワークは、「争いごとは避けたほうがいいんだから、『まずは』世間に合わせておきなさいよ」という態度を、「良し」とはしないのですか?
ソーシャルワークの原理が「社会正義」だからです。
ソーシャルワークの原理の話は、問題32や問題92でも触れ、そこそこ丁寧にお伝えしたつもりです。2,000年のソーシャルワークの国際定義で、まず「人権」と「社会正義」の2つを原理とし、その後、2014年のグローバル定義で「集団的責任」と「多様性尊重」が加わったわけです。ただ、私の感覚では、集団的責任と多様性尊重は、人権と社会正義の二つから論理的かつ演繹的に導けるもので、原理というまでもないかな、と思うところもあるのですが、発展途上国のソーシャルワーカーからすると、この二つをないがしろにしてきたそんな先進国へ向けて、楔になるように敢えて原理として入れたような気はします。なんとなくですけどね。
要は、ここで私が言いたいのは「ソーシャルワークってなんでそんなことするの?」「なんでそんな見方するの?」という説明をするとき、その根拠は「人権」と「社会正義」、この二つですべて説明できるんじゃないかな、と思っています。
※ただし、先進国に生きる私たちにとってはという限定付きですが。確かに発展途上国の場合には、集団的責任という原理の持つ意味合いはまだまだ大きいような気もします。
さて、ここまで整理したうえで。
多くの人が、「人権」は何となくわかるし、その何となくの理解でも、社会科学でいう人権とそこまで極端にズレてはいません。一方、「社会正義」についてはわかっていない人が多く、かつ、なんとなくで理解している人でも、その理解は、社会科学でいうところの社会正義から大いにズレていることが多いのです。
しかもですよ。ソーシャルワークでは「人権」と「社会正義」なんて順で語られることが多いですが、当の「ソーシャルワークのグローバル定義」では、「社会正義、人権、集団的責任、および多様性尊重の諸原理は、ソーシャルワークの中核をなす」となっていて、まずもって社会正義から始まるんです。え?たかが順番じゃないかですって?いや、順番はとっても大事ですよ。定義等の作り手は当然、その順番も意識して文を作ったに決まってるじゃないですか。この社会福祉国家試験もその問題の順番を論理的に組み立てているようにね。その論理性を「どうでもいい」と思って、「結局は暗記なんだよ」という人にとっては「どうでもいい」ことに見える、というだけですよ。
さて、じゃあ、グローバル定義の原理でも最初に来る、それだけ重要な「社会正義」とは何でしょうか?
ここで考えなければならないのが、これらソーシャルワークってどこでできたもので、誰が「社会正義」を原理だって言ってるのかってことです。問題98の解説でも書きましたし、他の問題の解説でも書いたかもしれませんが、日本でいうソーシャルワークのほとんどはアメリカで作られたものです。イギリスの歴史なんかもちょこっと教科書には載ってますが(その背景は問題25の解説を参照)、ソーシャルワークに載ってる理論等のほとんどはアメリカでできたものです。そして、ソーシャルワークの国際定義もアメリカの影響が強くあっての国際定義です。(それへの発展途上国からの反発が、2014年グローバル定義なわけですが。)
ですので、社会正義は英語に訳さないといけません。「社会正義」は英語では、social justiceです。まずもって、日本語でいう「正義」と英語の「justice」とでは、かなりそのニュアンスが異なります。日本語で正義というと、月光仮面や水戸黄門を思い出すでしょう。え?知らない?・・・。まぁ、何でもいいですよ、キン肉マンの正義超人でもいいです。え、それも知らない?・・・。まぁいいです。日本語で正義って言うと、絶対的な正義というニュアンスが強い。それは先に書いた「ダメだからダメ」「私は社会福祉士だから正しい」と同じように、疑われない、疑うことすら許されない、そんな正義です。そんなものがあるはずだ、もしくはそれを体現するような人がいるはずだとし、そういう人の登場を待ち望み、そんな人が現れるやみんなでもてはやされます。それもそういう人は、水戸黄門やキン肉マンもそうですが、人情味があるそういう人として描かれます。
一方、英語のJUSTICEは?
辞書引いてみてください。
え?最初にサンシャイン池崎って出てきた?その辞書は捨ててください。
えーっと、そうじゃなくて英和辞典です。
このようにたくさんの訳語がある英単語を「多義語」なんて受験英語では言うようですが、日本語に訳すと多義になるだけであって、当地では当たり前ですが、それらを包み込む1つの意味、ニュアンスがあるはずです。JUSTICEは正義と訳されますが、そこでいう正義のニュアンスは、司法や裁判といった法曹界の用語が出てきてることや公正、妥当などという言葉が出ていることからもわかるように、日本語の「正義」にまつわる人情的なものの反極にあるようなものです。できる限り人情を入れず、前もって決めたルールに従って、論理一本で勝負し、立場の違う見解が2つあったとしても、どちらが公正かを、人情ではなく、論理で判断する。これが「正義」です。ただし、アメリカをはじめとした西洋のJUSTICEは、人情は入らなくても、神の教えなるものが急に入り込むことが多々あります。そこで、神なき時代としての近代以後、できる限り神という要素を排除し、社会の中の合意として正義をとらえよう、という観点を強調するとき、その正義を「社会正義」(social justice)といって、単なる「正義」と分けるのです。特にこの社会正義のニュアンスが社会科学の中で強調されるようになった、その契機は、何と言っても、ジョン・ロールズの『正義論』(1971年)であり、だからこそ、「現代社会と福祉」ではロールズがよく出題されているわけです。
社会正義には、その背後に絶対的な基準などないのです。ときどき、社会主義からくる一律平等といった発想を社会正義と思っている人もいますが、それも間違いです。社会正義は、一律平等という絶対的基準に基づいた正義感ではそもそもないのです。人権を原理とすれば、一人一人が異なっていても一人一人が中心になります。一人一人が中心ということは一人一人が異なることは積極的に是認し、受け入れる、ということです。資本主義という在り様は、一定程度の格差は是認するのはそのためです。ただし、だからと言ってあらゆる格差を是認するというわけではありません。公平、構成とは言えないような、そのような格差に対しては、情を一切排除し、冷徹なまでにその格差を否定し、介入し、強制的にでも格差を是正する。そんなニュアンスが「社会正義」にはあります。ただし、じゃあ、どこまでが公正で、どこからが公正じゃないって言えるのか、というと、社会正義という概念は、そういう定義はしないんです。「公正/公正じゃない」の線引きがあるとすれば、格差をある程度は是認する、そんな社会が「いくらなんでも、この格差って、どう考えても是認できる範囲を超えて差別的だよね」って思うようになる、それがラインです。つまり、ラインが先にあるんじゃなく、社会が先にあるんです。すると、社会が変われば、どこで線を引くか、それも揺らぎ、変わるに決まっているんです。
<事例検討>
さて、ここまで踏まえて、ようやくこの事例について、ソーシャルワークの見方を踏まえて、丁寧に考える土台ができました。さぁ、考えてみましょう。ソーシャルワークの見方からすると、なぜ選択肢1は100%で×なのでしょうか。
この事例の病院では、緊急手術後については「家族以外は面会拒絶」というルールがあります。このルール自体を否定することは難しいでしょうね。なぜなら、病院もまた「社会」だからです。社会とは、様々な人が交わる場です。そうであれば、当然ながら人と人が対立し、秩序が乱れることもあり得るでしょう。様々な人がそこそこに生きていける程度に秩序は維持したい。そんな秩序を維持するためには、一定のルールは必要です。ただし、ルールを作るにしても、秩序を維持するための最低限のルールにする必要はあります。過度にルールを作りすぎると、様々な人が交わる場として不都合が生じるからです。
病院は、社会において治療に特化した場でもある以上、治療を最優先にできるような環境を病院自らがルール化し提示しなければ、秩序は維持できません。そこで家族以外の面会をお断りにした。そのような、この病院のルールは最低限のルールとして、妥当性を欠いたものとまでは言えません。
ただ一方で、ここで考えなければならないのは、このルールのほうではなく「家族」の定義です。家族には明確な定義はないまでも、ここ50年ほどは、異性愛を前提にし、そのペアの子を含む「核家族」を前提にしてきました。おそらくこの病院でも「家族以外おことわり」というときの家族について、明確な定義はしていなかったはずです。例えば、家族の定義として、例えば「同居」を前提にすれば、離れて暮らす子が病院に入れないことになる一方で、居候が家族として病院に入れることになります。
ここで考えてみましょう。緊急手術でも「家族」だけは、なぜ、ルールの例外として、面会ができるのですか?なぜそのルールを私たちは「妥当」と判断するのですか。
もちろん、私たちは病院が対象とする「病気」について、「個人的なもの」と考えず、「社会的なもの」と考えるからです。病院は病気を治療する場のみならず、病気を受け入れていく場でもあります。病気がそのような「社会的なもの」である以上は、自分の「生」に「環境」として大きな影響を与える「大事な人」としての家族だけは、例外的に面会を許し、ともに受け入れ、ともに戦っていくための準備をしてもらえるようにするのは当然のことです。
ただ、かつての日本社会では、「大事な人」を「家族」と同一視することに一定の同意が得られたかもしれません。そして「家族以外お断り」というルールはは、「大事な人」だけは例外扱いにして面会できることと同等のニュアンスを帯びていたのかもしれません。
しかし、今はどうでしょうか。
家族という形態も1990年代ごろから多様化しだして、「正しい」家族があるかのような論調に対して、別様の見方が社会科学的に提示されていることも、知っているはずです。
えっ?知らないですって?
そんなはずないのです。問題1から丁寧に解いているならば。
例えば、問題18でやった「標準的な段階設定をすることなく、社会的存在として、個人がたどる生涯の過程」ってなんでしたか?問題18の選択肢4の「ライフコース」ですよ。そして、そんなライフコースが仮想敵としていたのが、欧米では戦前から日本では戦後から社会科学の基礎的な概念とされてきた、問題18の選択肢1の「家族周期論」(=家族全般に見られる周期があるという説)や「生活構造論」(=家族全般に見られる変化しずらい生活の構造があるという説)でしょう。
また、問題99では、家族で生じる問題について、原因と結果が循環している、つまり、正しい家族や正しい家族問題の解決なんてものを疑う見方を「家族システム論」として学びました。
それら踏まえて。
病院での家族を例外とするルールにしても、「家族」だから例外にするのではありません。その人にとって「大事な人」だから例外なのです。時間をかけながら、原因⇔結果を循環させながら、問題の解決へと導くのが、今日の病院である「べき」と、ソーシャルワークでは考えるならば、「病院のルールだから、ここはまずは守っておこう」というアドバイスをすることを優先するするなんて、そんなのは私たちがここまで学んできたソーシャルワークじゃありませんん。
ということで、選択肢1は100%×です
②残った△の選択肢から、優先順位1位の選択肢に〇をつける
選択肢2から5までが、△で残りました。
さて、この事例では、優先順位はどういうルールで決まりますか。何も条件が提示されていなければ、事例問題の優先順位は早くやる順です。
しかし、この事例では、優先順位の条件が提示されています。
どこに?
問題文にです。
なぜ、ソーシャルワークはそんなルール変更を目指すのですか?もちろん、このケースにおいて、Mさんの「同性のパートナー」であるLさんは、Mさんにとって「大事な人」であるにもかかわらず、「家族以外面会禁止」のルールによって、排除されるというあり方が、今の私たちにとっては、どー考えても公平・公正とは言えないからです。そう、ソーシャルワークが「社会正義」を原理とすることから導かれるのです。
○他市の「同性パートナーシップ証明」発行の取組について、地域住民を対象とした学習会を開催する。
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こういった事例を見て、「あー、道徳的な答えに丸すればいいのね」ではなく、ソーシャルワークって何だろうと改めて考え、なぜ自分はソーシャルワークなんだろうと問い直すような、そんなあなたであれば、こんな入門書を。高校生ぐらいをターゲットにしているシリーズの新書ゆえ、大変読みやすいですが、そうであるがゆえに、改めてて自分の立ち位置が問われます。
【お勧め応用本】
ソーシャルワークを超えたものになりますが、最近こんな本が出てますね。私たちが学んでいるのはソーシャルワークでありつつも、つねにソーシャルワークを超えた眼差しをも鍛え、他職種と連携していくことを模索し続けなければなりません。そのようなときに、「やっかいな問題」とは逆に地域を変える可能性に満ちたものとみえることでしょう。