ソーシャルワークから見た「家族システム論」

14相談援助の理論と方法
今回のポイント
・抽象的な専門用語そのものが問われているときは、「具体的な敵」が何か知ること
・抽象的な専門用語そのものが問われているときは、×を意識すること

問題99 家族システム論に関する次の記述のうち、最も適切なものを1つ選びなさい。
1 家族内で生じる問題は、原因と結果が円環的に循環している。
2 各家族員の分化度が高いほど、家族内において相互依存が生じる。
3 家族の内と外は、区別されず連続している。
4 ある家族の全体が有する力は、各家族員が持つ力の総和に等しい。
5 多世代家族において、一つの世代の家族の不安は、別の世代の家族に影響を与えない。

社会福祉士国家試験 第33回(2021年)より解説

システム」なんて言葉を聞いただけで
「あー、あったま痛ぇ!もう嫌だ!こんなの知って何が社会福祉に役立つんだよ!」
なんて気分になる人が少なくないこと、私もよーく知っています。
10代から70代まで、いろんな人にソーシャルワークを教えてますんで。

そんな人に朗報!

そもそもソーシャルワーカーになるために、「システム」って言葉(=概念)そのものを「しっかり」理解する必要はありません。
なぜなら、「システム論者」なんて言われるような、システムについて「だけ」研究してる科学者だっているぐらいですから。であれば当然、私たちがシステムについて「しっかり」理解するなんてことはできませんし、そもそもシステムについて「しっかり」理解することを、社会福祉士国家試験があなた方に求めてなんかいないのです。

それは、社会福祉士国家試験が19科目というとんでもなく多い数の科目で構成されているってこととパラレルなことです。
例えば、19科目の最初の科目は「人体なんちゃら」って科目でしたね。(長いので、「なんちゃら」で略しちゃいますね。)「人体なんちゃら」は、科学としては「医学」ですが、じゃあ、医学をしっかり知っていないとあの7問が解けませんか?そんなわけないでしょう。
なぜ「医学」という科学を詳しくは知らないのに、社会福祉士国家試験の「人体なんちゃら」の7問は解けるのですか?それは、「ソーシャルワークから見た」という形容が必ず問題のタイトルの前にあるから、でしたね。
私たちは「ソーシャルワーク」については知っている。それを前提にした「人体なんちゃら」であるという、限定つきの問題(=純然たる医学の試験ではない!)だから解けるのです。

さて、ここでの「システム」ってやつも、システムそのものが聞かれているのではなく、タイトルには常に「ソーシャルワークの見方を前提にした」という形容詞がついていること、これをもう一度思い出す必要があります。

「んー、でもさぁ、『医学』って言われると、『身体に関連することだな』とか、何となくイメージがつくじゃないですか。でも、『システム』なんて言われると、イメージすらつかない。そんなイメージすらつかないものに、『ソーシャルワークの』ってワードをのせたところで、わかんないもんはわかんないですよ。」

なるほど。
それでは、逆に考えてみましょう。あなたは、なぜ「医学」っていうとイメージがわくんですかね?それは、「医学」って言われて何となくわかる程度に、義務教育課程のカリキュラムの中に、医学周辺のことが入っているからです。
もちろん、医学という独立した科目が義務教育課程に入っているわけではありませんが、「理科」等含め、その土台となるようなものが義務教育のカリキュラムの中に埋め込まれているのです。それは、「心理なんちゃら」って科目の「心理」しかり、「社会理論と社会システム」の土台となる「社会」しかり、私たちは知ってる、知っちゃってるんです。なぜなら、これらすべて義務教育課程にうまーく入りこんでいるからです。

じゃあ、これら義務教育で学ぶことっていうのは、いつごろどうやって決められたんですか?
「学校教育法で」とかそういう話じゃないですよ。義務教育って、いつごろに「制度」として成立しはじめたと思います?だいたい20世紀初頭ぐらいですね。20世紀初頭、つまり1900年~1910年代ごろから、義務教育みたいな発想が先進国のなかで出始めるんです。
そして、実は、私がしょっちゅう言う「社会科学としてのソーシャルワーク」って表現のなかに入ってる「社会科学」ってやつが、「科学」として認められだしたのも、ちょうどこのころです。
そして、そんなころに、リッチモンドは、ソーシャルワークをも会科学として認めてもらうために(みんなが科学と信じる)「治療モデル」的な枠組みでCOSでの実践を理論化したなんてところがあります。

私たちが義務教育で学んでいるカリキュラムの内容は、だいたい20世紀初頭あたりでできた社会科学の枠組みを前提にしてるんです。だからこそ、「治療モデル」って考え方も私たちにとってはしっくりくるしわかりやすい。
でも一方で、ジャーメインなんかがいう「生活モデル」なんてのは、すごくわかりにくく感じるんです。
私が何を言いたいか、わかりますか?
私たちが社会福祉士の国家試験とか勉強してて「わかりやすいな」って思うようなものっていうのは、そもそもが「わかりやすい」のではなく、義務教育でその大枠を習っちゃってるから「わかりやすい」んです。

<「わかりやすさ/わかりにくさ」の根源>
「治療モデル」=「義務教育」下でその考え方を習ってるから「わかりやすい

「生活モデル」=「義務教育」下でその考え方を習っていないから「わかりにくい」◎では、そんなわかりにくい「生活モデル」を誰にでもわかるように説明するには?
→「『治療モデル』ではない見方・考え方を目指すものだよ」という説明をして、イメージをつかんでもらう

1960年代ごろから、ソーシャルワークは治療モデル的な発想でうまくいかなくなっっていきます。そんな時代においては、「治療モデル」ってのは乗り越えなければならない「具体的な敵」になるんです。
「具体的」ってここで表現したのは、要は「わかる!」ってイメージを具体的と呼んでるだけです。1900年前後あたりから1960年代ごろまで、先進国は、「治療モデル」に依存しながら、工業化・都市化した「新しい社会」を作ってきた。そんななかで「治療モデル」って見方を、徹底して使い倒してきたんです。もう頭に「治療モデル」的な見方が刷り込まれちゃってる。だから、そんな治療モデルについては私たちはよーくわかってるんです。そして、現在の社会だって、そのような時代に作られた社会を前提にしちゃってるんです。だから「具体的=わかる」ってこと。
でも、具体的にわかっちゃうからこそ、逆に、都市の限界なんかを知れば知るほど、「このモデルじゃあ、もうだめだ!」ってことにも私たちは気づいているわけです。

そこで、「治療モデル」という具体的な敵とは異なる、別の見方・考え方によるソーシャルワークを目指そうってことになります。
それを、1960年代ごろのパールマンやホリス、バートレットが論理的かつ象徴的に語りだしたわけでしょう。だから、今となっては、これらの人の著作ってある程度知られているし、何となく私たちだって、パールマン、ホリス、バートレットと言われれば、何となく知ってはいるし、彼女らの著作にどんなことが書いてあるかぐらいも推測は付きます。
そうなのだけれども、当時も、そして今でも、このあたりの人の書く著作を「読みにくい」「わかんない」って人はやっぱり多いんです。
そこで、パールマン、ホリス、バートレットらが1960年代に象徴的にスローガン的に語ったような、そんな「ノリ」というか「見方」みたいなものを、1980年代のジャーメインが整理したんです。「生活モデル」って形で。それが、「治療モデル」から「生活モデル」へ、なんて言われる由縁なわけでしょう。
このへんまでは大丈夫ですか?このへんの話はソーシャルワークの大前提ですよ。

じゃあ、次は、システムの話ね。
ソーシャルワークにおいて「システム」なんて概念が出てくるときも同じ構図です。
「システム」っていうのも、20世紀初頭にできた社会科学や治療モデルについて、「なーんか違うんだよなぁ~」「なーんかこれじゃうまく個人や社会が説明できなくなってんだよなぁ~」って思われだした1960年代ごろに、ソーシャルワークに影響を与えだすわけでしょ。
そんな「システム」って何か? 少なくともここで確実に言えることは、「治療モデル」を前提にするような発想とは異なる「何か」だってことですよ。その程度の知識で十分です。

社会福祉士国家試験問題作成者が問うているものは、それぐらいの水準のものです。そして、そんなシステムに関する問題に出会いながら、「システム」ってものに興味を持ったならば、いくらでも本はあります。教科書等にも参考文献はたくさん載っています。

さて、ずいぶん長々書きましたが、相談援助系科目で問われていることって、こんなぐらいの水準のことなんです。このあたりこと(=見方・考え方)がわかっている人にとっては、相談援助系科目は楽に9割ぐらい点が取れる。
一方で、相談援助系科目に苦手意識を持っている人は、このあたりのことがわかっていない。だから、まともに「システム」って何かを丸暗記して覚えようとする。
とはいえ、このへんの見方考え方とでもいいましょうか、そういうものを丁寧に書いてくれているものってあまりないので、ちょっと私なりに説明してみました。

ということで、問題の解説に戻りますよ。
(ここまでは、まだ問題の解説にすら入っていない、前段の話です!)

まず、この問題の問題タイトルは?
「ソーシャルワークから見た『家族システム』」ですね。
つまり「家族」を「システム」として見るってことだ。もっと言えば、「家族」を「治療モデル」(=単純な「原因→結果」図式)では見ないってことですよね。
「家族システム」って用語だけで、ここまでイメージをつかんでほしい。
そのうえで、選択肢を1つ1つ見ていきましょう。

選択肢1 〇に近い△

1 家族内で生じる問題は、原因と結果が円環的に循環している。

1960年代以前のソーシャルワークの前提であった「治療モデル」とは、直線的で単純な「原因→結果」図式で問題を把握するってことなわけでしょ。
一方で、この選択肢では「原因と結果が円環的に循環している」なんて書いている。

「どういう意味?」

そんなふうに思っちゃーダメ。
(いや、ダメというか、こういう表現に興味・関心を持ったのであれば、もっと詳しいモノの本を見て調べればいい。それが王道の勉強ですから。)

この表現に限らず、「生活モデル」だってそうで、私たちは徹底して義務教育で正しい教育なるものを受けているから、そこからズラされた表現をされるや否や「どういう意味?」「わかんない」って言ってしまいがちです。
でも、私たちが生きているってこの在り様(=ライフ)をそのまま描きろうとするとき、「原因→結果」で説明しつくせるなんて発想のほうがおかしいんですよ。そもそもそんな見方を、あなたの生活の中でやってますか?生活の中で、なんでもかんでも「原因→結果」で考えるような、そんな見方をしてるわけないでしょう。もう少し言うなら、自分の生活を人に分かってもらう必要があるとき、わかってもらうがために、無理やり「原因→結果」という図式に合わせて説明しちゃうんです。

「じゃあ、原因と結果について、ありのあまの生活を踏まえるとどう考えればいいの?」
システム論なんかだと「原因と結果が円環的に循環するんだ」なんて表現をするわけです。ただ、それが「正しいんだ」なんてことを言いたいんじゃないんです。それはソーシャルワークの研究者だってわかってる。だから「システム『論』」って言ってるでしょ。「論」ってつけるときは、「あくまで一つの見方にすぎません」ってニュアンスを強調するときです。

ということで。この見方が正しいかどうか別として、敵である「古いソーシャルワーク」の拠り所「治療モデル」とは異なる見方・考え方を、この選択肢1はしている。それは最低限いえるわけです。だから、〇に近い△ぐらいにしておきましょう。
いきなり〇にしてはダメですよ。なぜなら、システム論のことは私たちは詳しくはわからないんですから。
ソーシャルワークのシステム論は、古いソーシャルワークを敵にしてるってことだけは確か。そこだけを私たちは知っている。何度でも確認。

選択肢2 × に近い△(もしくはノーマルな△でも可)

2 各家族員の分化度が高いほど、家族内において相互依存が生じる。

「家族員の分化度」なる表現を知っている人はどれぐらいいるでしょうかねぇ。大学で、それも家族療法なんかを専門に学んだ人以外は知らないでしょうねぇ。社会福祉士の教科書でもほとんど書いていないんじゃないでしょうか。これ、精神科医であるマレー・ボーエンによるボーエン家族療法によるワードですね。1950年代から60年代ぐらいですかね、アメリカで家族療法という発想が出てきた、そんな時期のものですね。
もちろん、問題作成者はそんなことを知ってることを前提にはしていません。
せいぜい、△でも、×に近い△にできれば十分です。

まず「分化度」って何ですか?

いいですか。
こんな表現、この科目の教科書にも載っていません。
ってことは、わからないことを前提に問題作成者も聞いているんですから、「覚えてるかどうか」とかじゃないんです。立ち止まってロジカルに考えてみるんです。

「分化度」、つまりは「分化」の「度」合いのことですね。
しかも、「高いほど~」って書いてますから、どの度合いは「高い/低い」で測られるようなものなんでしょうね。

じゃあ「分化」って何ですか?
「社会理論と社会システム」に出てくるであろうゲオルグ・ジンメルなんて人は、「近代化とは、社会『分化』のことだ」なんて言ったりしますね。
もしくは、ソーシャルワークの話でも出てきますよ。「リッチモンド以後、ソーシャルワークが専門『分化』して、これじゃ駄目だと、ミルフォード会議でジェネリック概念が提言され・・・」とか。
これぐらいは知識として知っておかないとダメ。

さて、じゃあ、そこでいう「分化」とは?
これ、さらに分けて考えてみればいいんですよ。「分」と「化」って2つに分けましょ。

「化」って何ですか?
「〇〇化」っていうのは「〇〇をプロセスとして見る」ときに言いますよね。近代になっていく過程をプロセスで見るとき、「近代『化』」って言うでしょ。

じゃあ、「分」って何ですか?
「分かれる」ってことですね。

「分化度」が高い=分かれていくプロセスの度合いが高い

何の話をしているのか?

近代化を「分化」を基準に見るってあり方は、ゲオルグ・ジンメルに限らず、社会科学では結構よくある話なんです。例えば、「社会理論と社会システム」で絶対に覚えなきゃいけない、「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」(テンニース)とか、「第一次集団から第二次集団へ」(クーリー)とか、あるじゃないですか。あれって何を言ってるんですか?近代化を「分化」で説明しているんです。
みーんな同じ同質的なものから、みーんな異なる異質なものになっていくこと、それを近代化の特徴として、「同じ」から「違う」になっていくそのプロセスを、「分化」って呼ぶんです。
家族なんかはその典型で、みんな同じ農民で、同じ生活リズムで、同じ部屋(家)でいっしょに寝て起きて畑耕して・・・とみーんな同じ。それが前近代。ところが、近代になっていくにつれて、農業の労働力と見なされた「小さな大人」が、「子ども」という大人とは別のものとして分かれて理解されるようになり、そこから、子どもは育児・教育されるものとなり、その育児・教育は大人の女性がやるものとされ、それをやるプレイヤーが「母」と名付けられ、それによって、同じ農作業の中核メンバーであった「大人」が性別で「父」と「母」に分かれ、・・・・・。こうして、家族成員が同じではなく、それぞれ異なるものに「分かれて」いく、なんて見る見方が、「分化」って見方ですね。さらに、その度合いでみる「分化度」っていうのは、大人と子供を分けるのと、そこからさらに父と母を分けるのとでは、もちろん後者のほうが分化は次の段階に進んでいるので、「分化度が高い」ってみるわけですね。

一方で、選択肢の、後半にある「相互依存が生じる」の「相互依存」って何ですか?
依存とは、本来は「分化」すべきなのに、まだ「同じ」でいる、そんな状態に対して与えるマイナスの評価のことです。前近代で、みーんな農民のころには依存なんて言葉はありません。生活も何も、みーんな同じだから。しかし、近代化にともなって、家族は、「父」と「母」と「子」と分けてみるのが当たり前、それが正しい、という見方になったときに、どっちが母でどっちが子かわかんないようなぐらいに一体になっちゃってるのは良くないよ、おかしいよ、って言いたいときに「依存」というわけですね。

ここまで整理すれば、選択肢2の文章はおかしいと気づくでしょう。「分化度が高ければ、依存度は低くなる」、そうやって、家族内も含めて分化していくことが良いことだって見方が「近代」の見方なのです。ただ、あまりに分化しすぎると不安になるわけです。そこで、家族は、ただただ分化度が高ければいいわけではなく、適度に相互に依存できる程度に、分化度が高い状態を求める。その「適度な状態」ってこの見方が、原因→結果図式で、分化が高けりゃよし、みたいな単純な治療モデル的な見方と違うでしょう。
こういう見方も「システム」っていうんです。

選択肢3 ×

3 家族の内と外は、区別されず連続している。
例えば、「治療モデル」の典型は、身体の治療という医療行為ですよね。そこでは、身体とそれ以外をはっきり分けます。治療モデルのゴールは、健康という正しい状態からズレた身体を、健康という正しい状態に戻すことです。だとするならば、身体の外はどうでもいいのです。なぜなら、身体の外にウィルスがうようよ浮かんでいても、身体の外である限りは「身体は健康」と考えるからです。もしくは、身体が健康ではない状態を呈していたら、ウィルス以外の原因を身体の内側に見つけようとします。

じゃあ、「システム」はその反対だから、家族の内と外を連続的にとらえるのか?というと、これは違うんです。この選択肢に何となく〇をつけた人いるんじゃないですかね。
「システム」というのは必ず「何か」のシステムなんです。すべてを包み込む「システム」なるものがあるって発想はしない。知りたいことに目を向けて、その知りたいことを「システム」としてとらえて、その知りたいことを「治療モデル」とは別様に知ろうとする、それがシステム論です。

そして、知りたいことを「システム」として見る、その最低条件は、見たいものとそれ以外のものに「差異をつける」ってことです。要は「分ける」ってことです。
例えば、家族システム論は、家族を「治療モデル」とは違う形で知りたいわけですよ。すると、「家族」と「家族以外」に分けるんです。そして、「家族」は「家族以外」との関係の中で「家族」ってものが成り立ってるって考えるんです。そして、その「家族」と「家族以外」との関係を、相互作用とか言ったりもしますかね。
この考え方を応用すると、リッチモンドの「個人と社会、どちらも眼差す」というソーシャルワークは、「個人/個人以外」として見て、「個人以外=社会」と言い換えれば、リッチモンドのソーシャルワークをシステム論として見ることもできるわけです。

システムの最低条件、それは、見たいものとそれ以外を分ける(=差異化する)ということです。

そんな中で、例えば、家族の成員が分化しすぎると、家族は崩壊するわけです。でも、家族ってものがあったほうが、不安を解消しやすいってメリットがある、と考えるなら、家族以外のものにならないように、家族のメンバーは意識して家族を装う(演じる)ことで、「私たちは家族なんだ」って言うわけです。こんな考え方で家族を眺める眺め方が、システム論的って言えるでしょうね。

選択肢4 ×

4 ある家族の全体が有する力は、各家族員が持つ力の総和に等しい。

「治療モデル」が依拠する「原因→結果」図式というのは、「実証的」とか、「客観的」とか、「計算可能性」なんて言葉とも相性がいいです。つまり、自然科学的な見方(=あらゆる現象には法則があり、その法則はシンプルな計算式で導かれる)を前提に組まれているものなんです。すると、家族の一人一人の力を足したら、全体の力になるっていう考え方なんかは、単純な計算可能性による見方ですよ。部分を全部足したら全体になる、っていうそういう見方です。
もちろん、「システム」はそういう見方をしないわけです。
特に、部分を全部足したら全体にならない、それ以上の何かになるって見方を「創発特性」なんて言ったりします。

選択肢5 ×

5 多世代家族において、一つの世代の家族の不安は、別の世代の家族に影響を与えない。

選択肢3で、「家族/家族以外」という差異化がシステムの最低条件って話をしました。
「家族」と「家族以外」の間に線を引く(=差異化する)ことで何を見ようとしているかというと、家族が家族以外とが互いにどのように影響を与え合いながら、どのようにして「家族」なる制度・見方を成立させているか、ってことです。家族があるのは、家族以外があるからだって考え方、これはシステム論的な考え方です。
システム論の考え方から、「障害者がいるのは非障害者がいるからだ」って考え方も導き出せます。「健康な人」なる考え方がまずあって、そっからズレた人(=あっちにいってほしい、と「健康な人」に思われる人)を社会は「障害者」と呼ぶのであって、「障害者」の「障害」が先にあるんじゃない、って考えるわけです。このように、家族も、まず確固とした揺るがない「家族」なるものがあるのではなく、家族以外のもの(集団、群衆、会社組織・・・・)があって、それらでは心理的な不安が満たされない中で、心理的な不安が満たされる場があるっていう体にする必要性から、「家族」なるものがあるんだっていうそういう言い方が生じる、なんて見方はシステム論的です。ただ、じゃあ、「家族って何か」って言われると、事実婚も増え、同棲も増え、シングルも増え、シェアハウスも増え、独居者も増え、というなかで、何を家族というか、そんな定義はできないでしょう。家族以外との関係の中で、家族以外があるから家族があると言える。そういう見方がシステム的な見方です。

すると、この選択肢の冒頭の多世帯家族って言い方を考えてみましょう。多くの世帯の家族とは、ある特定の世帯の家族/別の世帯の家族で、分けるって見方のことを表しています。すると、分けるのは、分けたうえでその両者の関係を見たいから分けるんです。ですから、世帯ごとの家族同士が影響しないって考え方をしては、システム論にならないんです。

ということで、積極的に〇×にはならないが、まぁ、選択肢1の表現がシステムって見方に一番近いかな、で選択肢1に〇をして正解となります。

いきなり選択肢1みて、即〇にした人も多いかと思いますが。丁寧に説明するとこんな感じですかね。

正解 1

 

 

正解 1

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