ソーシャルワークから見た「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」

13相談援助の基盤と専門職
今回のポイント
なぜグローバル定義になったのか、その背景を理解する
1960年代という時代がソーシャルワークに与えた影響を知る

問題92 次のうち、「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」(2014年)が「ソーシャルワークの定義」(2000年)と比べて変化した内容として、最も適切なものを1つ選びなさい。
1 人間関係における問題解決を図ることが加えられた。
2 中核をなす原理として、社会の不変性の尊重が容認された。
3 実践の基盤として、社会システムに関する理論の導入が加えられた。
4 定義は、各国及び世界の各地域で展開することが容認された。
5 人々が環境と相互に影響し合う接点に介入することが加えられた。
(注)1 「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」とは、2014年7月の国際ソーシャルワーカー連盟(IFSW)と国際ソーシャルワーク学校連盟(IASSW)の総会・合同会議で採択されたものを指す。
2 「ソーシャルワークの定義」とは、2000年7月の国際ソーシャルワーカー連盟(IFSW)で採択されたものを指す。

社会福祉士国家試験 第33回(2021年)より解説

2014年の「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」(略称:グローバル定義)は、単独問題として、2016年1月の試験から毎年で続けて、第33回で6回連続出題になります。過去の社会福祉士の問題でも、これだけ単独問題として連続して出題され続けたものってないんじゃないですかね。それだけ、今日の日本のソーシャルワークにおいて、「グローバル定義」が与えた影響は大きいわけです。例えば、日本のソーシャルワークに関連する主要4団体の連合体である「日本ソーシャルワーカー連盟」は2020年6月に倫理綱領を久しぶりに改訂しましたが、それはこの「グローバル定義」の影響なわけです。この改定第34回の国家試験でおそらく出題されるんじゃないですかね。

ちなみに、国家試験は前年の夏ごろに作られいるんじゃないか、とはよく言われます。強い推測です。(その根拠は、あまり詳しくは言えませんが…。)
ですので、ぎりぎりでも前年の5月や6月ぐらいまでに確定しているような事項じゃないと出題できないんですよね。なので、「グローバル定義」も成立したのは2014年ですが、翌年2015年1月の国家試験には出題されなかった。精確に言うなら「間に合わなかった」のです。

さて、6回連続で単独問題で出ているので、出題の形式も、ちょっとひねらないと過去問と全く同じものになってしまいます。そこで、6回連続6回目出題の第33回ではちょっとひねってきました。2014年のグローバル定義と、その前の、2000年の国際定義とを比較する、そんな問題にしています。

2014年のグローバル定義は覚えていても、2000年の国際定義まで覚えている人はほとんどいないでしょう。もちろん、それは国家試験問題作成者もよくわかっています。というか、おそらく、国家試験問題作成者である、どこぞの大学教授も、2000年の定義まで覚えてはいないはずです。
すると、この問題は2000年の定義を聞いているのではなく、なぜグローバル定義ができたのか、その背景だけです。もちろん、その背景とは、西洋中心の社会科学観への、発展途上国のソーシャルワーカーからの根本批判です。

選択肢1 ×

以上3つの選択肢の文章は、すべてが「加えられた」で終わっています。
ということは、2000年の国際定義にはなく、2014年のグローバル定義から「新しく」加わった、という意味ですね。

先進国において社会科学としてのソーシャルワークを学んだのであれば、「問題解決」というワードを見たら、すぐにピンとこなければなりません。そう、パールマンの「問題解決アプローチ」ですね。

パールマンは1957年に「ソーシャルケースワークーー問題解決の過程」という著作を発表しましたが、ここで彼女が著した発想とは、その後のソーシャルワークの見方考え方の基礎となるようなものです。
他の社会科学同様に、ソーシャルワークにおいても1960年代が時代の転換期である、という見方を私はします。そして、少なくとも今のカリキュラム上の社会福祉士国家試験の問題作成者も、私と同様の見方をしています。
1960年代というのはきっぱりくっきり1960年代に起こったことというより、時代精神とでも言いますかね。そんな流れで1960年代に今のソーシャルワークに多大なる影響を与えた理論として、パールマンの「問題解決アプローチ」(誰もが問題解決する力[=ワーカビリティ]をもつんだ!)、ホリスの「心理社会的アプローチ」(常にすでに、状況の中に人はいるんだ!)、バートレットの「ソーシャルワークの共通基盤」(価値・知識・介入方法はソーシャルワークに共通だ!)、この三者は覚える云々なんてレベルじゃなく、この三者なくして、ジェネラリストソーシャルワークも何もないんです。

ということで、2000年の国際定義がまだまだ西洋、もうちょっと限定をつければ西洋の中でも最も強いとされるアメリカのソーシャルワークのノリがそのまま採用されている(アメリカのソーシャルワークこそが世界の標準だ!)って時代背景を知れば、そこに「問題解決」ってワードが入っていないわけがないのです。

そして、もっと言うと、そんな「問題解決」というワードは、グローバル定義の本文からは消えている。その事情も分かるはずです。
そう、グローバル定義は、そんな2000年の国際定義に対する、発展途上国のソーシャルワーカーからの反発から生じたものだからです。

選択肢2 ×

発展途上国のソーシャルワーカーは言います。

「西洋のソーシャルワークの理論は、すでにそこに<社会>があることを前提に組まれている。しかし、発展途上国はまだ<社会>が成立していない。発展途上国は<社会>の成立途上なのだ。」

ここでいう社会とは何でしょうか。ただ単にたくさんの人がいる場ではありません。
少なくとも社会科学(何度も言ってますが、ソーシャルワークは社会科学の1つです)における「社会」とは、「あらゆる人が人権を持ちつつ、それでいながら一定の秩序を保つことが、持続的に可能な場」です。
先進国日本に生きる人であれば、「そんなの当たり前じゃん」という人もいれば、「いやいや格差社会がますます進んでいて、日本社会はそうじゃなくなっているよ」という人もいるかもしれません。

ただし、この問題は、タイトルが「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」である以上、先進国と発展途上国、この対比にソーシャルワークという観点から焦点化しなければなりません。

世界全体を見れば今なお大半が発展途上国なわけですが、それらの国々の中には、飢えによって多くの児童が亡くなる国もあります。水道をひねれば水が出る日本と異なり、水を確保するために毎日山を越えるなんて人がいる国々もまだまだあります。そして、戦争によって多くの市民が今まさに亡くなっている国もあるし、内戦が生じることを常に心配しながら市民の大半が毎日を過ごす国もあります。
そんな国々において、「どんな個人にも問題解決する力があり、その力を最大限に引き延ばす、それがソーシャルワークだ!」と言ったところで何の意味があるでしょう。もちろん、先進国では意味があるから国際定義になっているわけですが、発展途上国では、そんな語りを「全世界共通のソーシャルワークの定義だ」といわれたところで、全く刺さらないわけです。
そのような背景を踏まえ、私の観点から敢えて言うならば、発展途上国のソーシャルワーカーとは、社会運動家でもあるのです。そうならざるをえない。

誰もが生きられる社会、そのためには政治が安定し、持続的な制度が確立し、インフラも最低限でいいからどの地域でも整備されなければならないが、そんな社会がまだまだ成り立っていない。じゃあ、個人の問題解決力がどうこういうまえに、まずは社会をつくらなきゃいけない。

これが、世界では圧倒的に多数である発展途上国にいるソーシャルワーカーの観点です。だから、グローバル定義では、冒頭から「社会変革と社会開発、社会的結束」と、過剰なまでの「社会」推しなんです。これが(先進国という全世界の一部ではなく)世界全体を見たときの、大多数のソーシャルワーカーに求められるものだ、というが「グローバル定義」の見方なのです。

というところまで確認したうえで、グローバル定義を見てみましょうか。

【重要】ソーシャルワーク専門職のグローバル定義
ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である。
社会正義、人権、集団的責任、および多様性尊重の諸原理は、ソーシャルワークの中核をなす。ソーシャルワークの理論、社会科学、人文学、および地域・民族固有の知(※1)を基盤として、ソーシャルワークは、生活課題に取り組みウェルビーイングを高めるよう、人々やさまざまな構造に働きかける。この定義は、各国および世界の各地域で展開してもよい。

選択肢3 × 選択肢5 ×

ということで、2000年の国際定義もここで確認してみましょうか。

2000年 ソーシャルワークの国際定義
ソーシャルワーク専門職は、ウェルビーイングの増進を目指して、社会の変革を進め人間関係における問題解決を図り、人びとのエンパワメントと解放を促していく。ソーシャルワークは、人間の行動社会のシステムに関する理論を利用して、人びとがその環境と相互に影響し合う接点に介入する。人権と社会正義原理は、ソーシャルワークの拠り所とする基盤である。

これをみて、「あー、確かに2000年の国際定義に『社会システムの理論』(選択肢3)や『人々が環境と相互に影響し合う接点に介入』(選択肢5)って表現が入ってるわー。国家試験は、2000年の定義を覚えろって言ってるのね」なんて思うのは、大間違い!
だと私は思いますよ。

いや、もうちょっと丁寧に言うと。
確かに、この2000年の定義を暗記すれば×って、そりゃ確実に言えるでしょうね。だから、この問題で「2000年の定義を暗記しろって言ってる」と解釈したとしても、この選択肢が×ってことで、問題作成者とのコミュニケーション成立です。そして、制度上の話だけに特化するなら、ソーシャルワーカーは社会福祉のすべての制度を暗記するスペシャリストっていう体で確かにいけるのかもしれません。
しかし、そのようなコミュニケーション観では、知的障害者とは会話できません。特に、発話無き知的障害者なんて言い方をされる、そんな方とは。私は、そうは思わないんです。おそらく社会福祉士国家試験を作っている問題作成者もそうは思ってないに決まっているのです。かといって、感情論や気分で何となく話した気になるって、そんなことを会話だと言ってるのではなりません。
知的障害者とも会話を可能にするもの、それが私が一貫してこのブログで言っている論理なのです。

横道にそれました。(いや、本音を言えば、これが本筋だと思っているのですが。)

2000年の国際定義に、私が赤アンダーラインを引いたワードを見てください。

・社会の変革(←1954年マイルズ「リッチモンドへ帰れ!」=「社会」をソーシャルワークに取り戻すべき)
・人間関係における問題解決(←パールマン「問題解決アプローチ」
・人びとのエンパワメントと解放(←1960年代の社会運動のキーワード)
・人間の行動の理論(←「行動変容アプロ―チ」などなど)
・社会のシステムに関する理論(←ジャーメイン「生態学的アプローチ」などなど)
・人びとがその環境と相互に影響し合う接点に介入(←ホリス「状況の中の人」

どれも診断主義と機能主義による(個人に特化した)争いを超えようとして、1960年代前後からアメリカで立ち現れたモデルなりアプローチなりから出てきたと、すぐわかるようなワードばかりです。
すると、見る人が見れば、1960年代という時代の転換を経たあとの、アメリカのソーシャルワークの総決算みたいな国際定義なんです。言い方を変えれば、アメリカのソーシャルワークのワードがちりばめられて、それが「国際的に正しいソーシャルワークの定義」みたいな話にされてるわけです。

そんな国際定義を、日本でアメリカ流のソーシャルワークの変遷を学んだソーシャルワーカー、もしくはアメリカ流のソーシャルワークの影響を強く受けた日本のソーシャルワーク理論を学んだソーシャルワーカーとでもいいましょうか、そんな者からすると、2000年の国際定義は「素晴らしいなぁ~」と見えることでしょうね。

しかし、発展途上国のソーシャルワーカーから見たらどうでしょうか。ちょっと想像してみてください。

ということで、選択肢3と5が×ってのは大丈夫でしょうか。

参考 ウェルビーイングとは?
2000年の国際定義のワード、敢えてちょっと考えるヒントが必要かなと思えるものがあれば、「ウェルビーイングの増進」ですかね。
これ、かつて日本語訳で「人間の福利」の増進なんて訳されることがありましたが、今は「ウェルビーイング」の増進って、そのまま言うのが普通ですかね。なぜなら、ウェルビーイングのほうがわかりやすいから。だって、ウェル(=良い)なビーイング(=存在、生き方、あり方)ですから。
意味は分かる。でも、「良い生き方?」、なんですかこれ?1960年代以前の時代においては、ソーシャルワークが目指すべき方向は明確に決まっていたんです。例えば、COSなら、貧困を脱すること。そのために、ソーシャルワークでは、貧困の原因を個人と社会の間に見つけて、それを取り除けば、立派な市民としての生き方に戻れますよ、とか。
そんなモデルを「治療モデル」(=悪い結果[例として貧困]になってる原因をみつけて、それを取り除けば元の正しい状態に戻る)って言います。この「治療モデル」って見方・考え方は、いまだに強力な説得力を持ってます。新型コロナウィルスの騒動について、ほとんどのメディアを通してなされる科学者の説明ほとんどが治療モデル的なものです。

ただし、この治療モデルに説明力があるのは、このモデルが「正しい」からではありません。このモデルが成立する、そのような条件をほとんどの人が信じているから、です。私はそう考えます。

別の言い方をしてみましょう。

「説明力がある」という場合、誰が誰に対して説明している力なのか、それを考えなければなりません。治療モデルとは、科学者の市民に対する説明においてなされる型であって、その型にはめると、市民がみな「正しいもの」としてありがたがって信じる、それが私なりの言葉でいう「治療モデル」が説明力を持つ、ということです。

では、なぜ「治療モデル」という型にいれて説明されると市民は信じるのでしょうか。これも私なりの言葉で言うと、「正しい市民」像が多くの市民の中で共有できたからです。「健康」で「労働」して「家族」をもつ、そんな「正しい市民」像が、人生で目指すべきゴールとして、ありありとイメージできたからです。工場労働ができる程度に、健康な肉体を維持しながら、勤勉に働いて、家族を養うこと、それが全員が目指すゴールとして「正しいもの」であり、それが「幸せ」なんだと。

ところが、その「正しい市民」なんてものが、世界中で(まぁ、「世界中の先進国で」、のほうが正確かもしれませんが)疑われだすのが、1960年代なんです。

すると、治療モデルって考え方は、説明力を失っちゃいます。なぜでしょうか。「正しい市民」像というゴールが結果としてあるから、そこからズレる原因を見定めることができるのです。ところが、「正しい市民」というゴールが市民に疑われ出すと、原因結果図式による因果関係で説明がつかなくなる。すると、「治療モデル」って枠組みに依存して理論を作ってたソーシャルワークは、1960年代に危機を迎えます。そんな中で、パールマンやホリスやバートレットが前面化してくるのですが。

さて、じゃあソーシャルワークのゴールは?
「ゴールなんていらねー」って言い方もあるでしょうね。でも、ソーシャルワークを実践でもあり科学でもあると言いたい人たちにとって、何を目指すのかも言えないと不都合です。専門職として他の科学に認めてもらえない。そんななかで、そうですねぇ、私の感覚では1980年代ごろからですかね、出始めた表現、それがウェルビーイングです。

そう、もやはソーシャルワークの目標は、ウェルビーイングとしか言えない、そんな時代に1960年代を転換期として、突入しているのです。

なんてぐらいの説明で、どうでしょうか。

選択肢4 〇

まぁ、この選択肢を見た瞬間に即〇にして、この問題はおしまい、ぐらいの基本的な知識ですね。
じゃあ、なぜグローバル定義では「定義は、各国及び世界の各地域で展開することが容認された」のですか。
2000年の定義は、アメリカのソーシャルワークの定義みたいなものだったわけですね。それを国際定義にして、「全世界共通の定義みたいな言い方するじゃねー!」ってのが発展途上国のソーシャルワーカーの反発であることは、先に確認しました。
ただし、アメリカなどの先進国ではこの定義は有用なわけです。だからこそ、このような定義を国際定義にしたわけですから。だったら、先進国では、この定義をソーシャルワークの定義っていう分には、全然反対はしないよ、と。ただ、2000年の定義を国際定義だっていう、その態度だけはやめてねと。

じゃあ、グローバル定義って、国際定義と何が違いますか?

グローバル定義は、2000年の国際定義のような「行動の変容」だの「人びとがその環境と相互に影響し合う接点に介入」みたいな、そういうミクロな見方を否定し、ゆるーく全世界を包み込むような、大きな理念のような、そういうマクロな定義にしているわけです。

そのうえで、個別具体的な(ミクロな)定義は、どうぞ国ごとの事情にあわせて、定義してくださいね、と。

それが、グローバル定義の最後の一文の意味です。

正解 4

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