ソーシャルワークから見た「財産権の制限」

11権利擁護と成年後見制度
今回のポイント
日本国憲法と法律の違いを知る
自由権を国家が制限することの怖さを知り、制限できる際の条件を精査する。

問題77 財産権の制限に関する次の記述のうち、最も適切なものを1つ選びなさい。
1 財産権は、条例によって制限することができない。
2 法律による財産権の制限は、立法府の判断が合理的裁量の範囲を超えていれば、憲法に違反し無効となる。
3 所有権は、法律によって制限することができない。
4 私有財産を公共のために制限する場合には、所有権の相互の調整に必要な制約によるものであっても、損失を補償しなければならない。
5 法令上の補償規定に基づかない財産権への補償は、憲法に違反し無効となる。

社会福祉士国家試験 第33回(2021年)より解説

今回の問題77から問題83までの7問は、「権利擁護と成年後見制度」という科目になります。
この科目は、社会福祉士と精神保健福祉士の共通科目の最後の科目です。

参考 科目名の変更について
旧カリキュラムでは「法学」
というシンプルな科目名だったのですが、それが約10数年前のカリキュラム変更で、こんないかついすてきな科目名に変わってしまいました。この科目名だと、旧カリキュラムと変わらず一貫して、この科目の中核にある「法」の文字がなくなっているため、成年後見制度についてただただ覚える科目と勘違いしやすいんですよね。そこがこの科目名のデメリットです。そこに、今回のカリキュラム編成委員は気づいたのか、今、大学4年課程ではすでに始まっている新カリキュラムでは、科目名が「権利擁護を支える法制度」に変更されました。「法」の一文字が再び蘇ったのです。この名称変更に私は賛成です。
「権利擁護」は今の社会福祉のキーワードで、英語でいうアドボカシーの訳語として1960年代ごろに定着したものです。それが、社会福祉が2000年代以後の制度改革により地域福祉へとシフトしていく中で、権利擁護という概念もソーシャルワークの観点を踏まえて拡大して今日に至ります。そんなソーシャルワークの見方を踏まえた「権利擁護」を法制度が支えるんだ、そこをこの科目で学ぶんだ、と明確に科目名が伝えているからです。

「問題を解く前に、何を長々科目名にこだわった無駄話をしてるんだお前は!?」と思われたあなた。ちょっと待ってください。
今書いていることは、無駄話ではなく、この問題77に直結することなんです。
この問題77は難問と言われているようです。いろんな参考書や解説集を見てもそう書いてあります。しかし、私が見る限り良問です。

この差は、参考書類の見方「難問」と私の見方「良問」の違いはどこにあるのでしょうか。それは、国家試験の五肢択一を、「暗記で解く」ものと見るか、それとも「論理で解く」ものと見るか、その違いが反映されたものと思います。

いまだに多くの参考書や過去問解説集は、この問題を解くためにここを暗記しろ的な書き方をしているものばかりです。私もそれを悪いとは言いません。短期間で合格するには一定の暗記が必要ではあるからです。
ただ、この問題77を暗記でつぶすのに、どれだけの暗記量が必要になりますか。各選択肢に対応する判例等を覚えるのですか?無理ですよ。約20科目ある試験で、この科目で、それら判例まで覚えてられません。
そんな私の反論に対し、この問題を難問という人たちは、「これは捨てていい問題」などと反論してくるのかもしれません。

でも、私の見方では、国家試験では捨てていい問題など1つもありません
どれも良問で、「どれもソーシャルワークの見方さえ分かっていれば」確実に正解が導ける、そんな問題しか国家試験の問題にはないのです。だとするならば、国家試験合格に求められるのは、ソーシャルワークの見方から論理的に正解にたどり着こうとする姿勢です。

さて、それでは、選択肢を具体的に見ていく前に、この問題77のタイトルである「財産権の制限」について検討してみましょう。
ただし、です。この問題77のタイトルは「財産権の制限」ですが、この問題は決して法律による「財産権の制限」を聞いているのではないのです。つまり、「財産権の制限」はこの問題77の正式なタイトルではありません。

正式なタイトルわかりますか?すでに提示しているのですよ。このブログの記事のタイトルを見てください。

ソーシャルワークから見た『財産権の制限』

私は、そうこのブログ記事のタイトルに書いているでしょう。
この「ソーシャルワークから見た」はあらゆる問題のタイトルに省略されています。省略されているのは、どーでもいいから、ではありません。国家試験を受験する人の大前提だから、省略しているのです。大事すぎて大事すぎて、当たり前だから省略しているのです。逆に言えば、この大前提を知らないとしたら、国家試験のすべての問題は難問にしか見えてこないのです。

では、ソーシャルワークという社会科学から、「財産権の制限」というタイトルを見たとき、最初に何を思い浮かべますか。

「公共の福祉」です。

日本国憲法第29条 
1 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

自分が持ってる財産は自分のものだ、という感覚は、今の日本ではだれもが素朴に持っているとは思います。だから、日本国憲法第29条で「財産権は、これを侵してはならない」とあっても「そんなの当たり前」ぐらいにしか思わないかもしれません。
ただし、ここは丁寧に考えるべきところです。

日本国憲法第29条の「財産権は、これを侵してはならない」とは誰に対して命じているのですか?
市民に対してではありませんよ。なぜなら、市民が他人の財産を侵したら民法で賠償請求され、刑法で罰が与えられるから。

じゃあ、日本国憲法は誰に対して命じているのですか?
国家に対してです。

法律市民に対する命令
憲法国家に対する命令

それゆえに、今の日本では憲法なんか意識していない市民がほとんどですが、それでも社会は回るのです。
民法や刑法は市民に対して賠償請求されたり、罰が与えられますから、これらについて市民はある程度は知っています。
憲法は国家に対する命令であるがゆえに、良くも悪くもほとんどの市民が知らないどころか、意識さえしていないのです。

ではなぜ、日本国憲法は国家に命じるのですか?
国家は、市民が他の市民の権利を侵す程度以上に、とんでもないほどに市民の権利を、しかも法的な正当性をもって侵すことさえできてしまうからです。なぜなら、法を作れるのは国家ですから国家の都合で、市民の権利を侵すことが可能な法律さえ作れば、いくらでも法的には正当に市民の権利を侵せるのです。

ここに何らかのブレーキをかけなければ社会は成り立ちません。だから、日本国憲法がそうならないように命令し、国家にブレーキをかけているのです。

「・・・・。えーっと、それとソーシャルワークは何が関係があるの???」

関係大ありです。
ソーシャルワークが対象にする人の少なくない割合が、国家による法律に基づいた公的な制度・サービスによって生活が支えられています。国家が、市民の生活を前提にして必要な制度を、法によって定めるのではなく、国家の都合で改悪されては市民の生活が成り立たないからです。

それも、ただの生活ではないこともまた、憲法は国家に命令しています。

日本国憲法第25条
全て国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する

一方で。

「全ての国民が健康で文化的な最低限度の生活を送ることができる」、そんな社会を作っていくためという理由ならば、市民に与えられた自由な権利に国家が制限を加えることもまた、日本国憲法で認められています。そのような理由付けを「公共の福祉」といいます。

そして、先にあげた、日本国憲法第29条2項の「公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める」とは「公共の福祉」つまり、全ての国民が健康で文化的な最低限度の生活を送ることができるようにするために、必要とあらば、国家が法律で制限を加えることを認めるってことです。

ただ、ここの「必要とあらば」を拡大解釈したら、「公共の福祉」の名の下に何でもかんでも制限を国家権力は制限をかけてしまいかねません。

だから、最低限の制限であり、合理的な判断によるもので、それ以外の代替手段がない、などに限って、国家による制限が認められるのです。この3つを満たした場合のことを、小難しい用語では「合理的裁量の範囲」といいます。

ただし、そのような場合でも、その制限による不利益に相当するだけの補償(=「正当な補償」)がなければならない、と29条第3項で条件付けられています。

この手の話をすると「いやー、国家が権力で制限するとか、そんな話は空想の話でしょ」という人がいます。

でも、そんなのはいくらでもあります。

例えば、2021年7月のオリンピック直前には酒類の販売という自由な権利に対して、国家が制限をかけようとしたことがあったではないですか。しかも、その補償については、あるのかどうかも含め、たいへん曖昧なものに終始していました。

その件では、メディア上でも議論がありましたが、これこそが「公共の福祉」の名の下で、市民の自由権をどこまで国家都合で規制できるかという問いそのもの、なのです。
ここで議論されているのは、単なる「酒類の販売の是非」ではなく、国家権力がそのような規制を、しかも特例扱いでやれてしまうことの是非であり、これを問題として論じているのは、国家権力が自分都合で戦争しやすい国家運営をしてきた、その反省からくるものです。

さて、ここまで整理したうえで。

選択肢が5つ並んでいますが、これらはすべて、国家が財産権という市民の自由な権利に制限をかけている事例です。

この問題の解き方は、選択肢1から5まで、すべて△と仮定し、この中で唯一制限が許されるものがあるならば、どれだろう、と考えるのです。

つまり、「全ての国民が健康で文化的な最低限度の生活を送ることができるようにするために」は、その制限は許されるべきだろう、という理由で、優先順位1位になるものを考えればいいのです。

選択肢1 ×に近い△

今回のコロナ騒動下の酒類の提供の是非は別として、地域事情によりその制限の是非が異なることはありえます。
このコロナ騒動はその典型ですが、病院の受け入れ状況等は地域によって異なるわけです。
だとするならば、全国一律の法律ではなく、場合によっては地方自治体による条例による規制も、当然ながら、最低限で、合理的で、それ以外代替手段がない場合には認めるような、そういう発想を保持しておかないと、「公共の福祉」は達成できないでしょう。
なので、日本国憲法の発想を踏まえても、何でも認めるわけではないでしょうが、条例でも可でしょうね。

ということで、実際には、判例でも認められています。
※「奈良県ため池条例事件

選択肢2 〇

この選択肢にある立法府ってわかりますか?立法って聞いたことがあっても立法府なんていうと引っかかる人がいますが、要は、具体的な機関のことです。

立法=法律を作ることそれ自体
立法府=法律を作る機関そのもの 例 国会<対比として>
司法=法を司ることそれ自体
司法府=法を司る機関そのもの 例 最高裁判所

行政=政治を行うことそれ自体
行政府=政治を行う機関そのもの 例 内閣

「じゃあ、国会でいいじゃん」と思うかもしれませんが、選択肢1で見たように、条例も含まれますから、地方の議会も含むんです。だから、「立法府」という書き方をするのです。

では、「立法府の判断」とは何ですか?
立法府は法律を作るわけですが、でたらめに法律を作っているわけではありません。
「このような法律を作らないと、全て国民の健康で文化的な最低限度の生活を維持できないな」という判断があって、その判断を具体化させ制度にするために、法律を作るのです。
だから、法律には立法府の判断が含まれている、ってことになります。

コロナ騒動下の「酒類の提供禁止」がわかりやすいので、これで例えましょう。
酒屋にとって酒は財産です。その財産を売ろうが何しようが自由です。そこに対して、立法府が、酒類を「ここからここまでの期間で、この地域では売っちゃだめ」って法律を作ったとしましょう。それは「この期間においては酒をこの地域で売られては、コロナ騒動がとんでもないことになり、全ての国民の健康で文化的な最低限度の生活が維持できなくなる」という立法府の判断があるわけです。

ただし、今回は法律にまでなっていないものの、ほんとにコロナ騒動を収めるのに、酒類の提供禁止以外にやりようがないのかどうか、もっと他に合理的で最低限のやり方があるのではないか、と評論家や市民が思うから、いろんな議論が巻き起こるわけですよね。

もしそんな法律ができたとして、この立法府の判断に対して、評論家や市民ではなく、司法府(=裁判所)が、「それは合理的裁量の範囲を超えています、だから憲法違反です!」と裁判を通して判断した場合、司法府にはその法律が憲法による国家への命令に違反していないかどうかの判断をする権利があるので(=違憲立法審査権)「憲法に反し無効」とすることができるわけです。

選択肢3 ×に近い△

「財産権ってタイトルなのに『所有権』ってなんだよ!」って思われた人もいるかもしれません。

財産と所有の違いは、日常の語感からでもわかります。

「所有」の対象:持ってる具体的な物
「財産」の対象:物以外も含め、持ってるもの 例 知的財産

著作権とか特許権とかを知的財産権なんていいます。これらもまた財産です。財産権の対象は「物」も「物じゃないもの」も含むんですから、所有権は財産権に含まれるってことになります。

選択肢1で、財産権は「公共の福祉」の名の下で、国家権力の制限を受けることがありうることを確認した以上、所有権もまた制限を受けることになります。その典型は、国家が個人の土地を道路にすることですね。これはよくわかると思います。

選択肢4 ×に近い△

「所有権の相互の調整に必要な制約によるもの」って表現が難しいですねぇ。ただ、これは財産を公共のために制限したとしても、「特別の犠牲」といえる場合だけ、損失補償が必要って判断を司法がしていることを踏まえた表現と思ってください。
つまり、「所有権の相互の調整に必要な制約によるもの」っていう表現は「特別の犠牲とまではいえないよね=だから損失補償はしなくていいんだよ」ということ以上でも以下でもありません。

例えば。土地を持ってて。そこを公園作るための工事するために一時的にちょっとダンプカーが通らないと行けない場合。一時的なもので、そこまで犠牲払うってものでもないから、それは補償対象にはならないよ、なんてことです。

こんな問題が、なぜコロナ騒動下の今、出題されているか、わかりますか?
これ、酒類の販売停止に対して、「補償!補償!」と店側はもちろん言うわけです。
日本国憲法第29条3項「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」に基づいて、です。

ところが、司法による判例上は、「特別の犠牲」といえる場合だけ、補償は義務だから、絶対ではないんです。問題は、このコロナ騒動下における、酒類の販売停止が「特別の犠牲」と言えるかどうか。
かといって、店にとっては酒類の販売停止は、「所有権の相互の調整に必要な制約によるもの」なんてものじゃないですよね、さすがに。ただ、だからといって「特別の犠牲」と言えるかどうか、そこが解釈が分かれるわけですね。

まぁ、行政としても揉めたくはないので、補償をしようとはしているわけですが、補償をしたらしたで、憲法第29条の「正当な補償」にあたるかどうか、ここもまた解釈の余地があります。

このへんの話、「めんどいなぁ~」と思いますか?
でも、こういうことは、公的政策による社会資源に多くを依存しているソーシャルワークにおいては、たーくさん生じているし、それら解釈問題、線引き問題をたーくさん戦ってきて、そのうえでの今の社会福祉の制度なんです。
これを「めんどくさー」で終わらせるのではなく、今のご時勢ふまえ、これぐらいの法律による争いを、ソーシャルワークの観点から見れるようにはなって欲しい、そう国家試験は伝えているのでしょうね。いいふうに見すぎかもしれませんが。

選択肢5 ×に近い△

じゃあ、法令上の補償規定がなければ、補償は憲法上できないか、ということが、例えば、今回のコロナ騒動下での酒類の提供禁止なんてこと踏まえて問題になるわけです。

コロナ騒動なんて、そもそも前もって想定できしてなんかいませんから、いろんなところで補償問題は出てきます。だからといって、法令で定めているもの以外は補償できないとなったら、これはこれで行政施策上、いろいろ揉めるわけです。だから、補償は法令で認めているもの以外でもできる余地を判例は与えています

ですが、だからといって、法令で定めていなくても補償できる余地があることをいいことに、例えばどっかの役所の課長が企業と癒着して、その企業の土地を公的に使ったからとかいって、普通は支払うことのないような補償を、公的にやっちゃうような、そんなことまで認めるものではありません。だから、選択肢4にも書いたように「特別な犠牲」を課したものである場合に限り、という限定を判例ではつけていますね

さて、今回のコロナ騒動下では、どこまでが「特別な犠牲」でどこまでが「所有権の相互の調整に必要な制約によるもの」ですかね。その解釈は行政や司法だけではなく、あなた方ソーシャルワーカーにも考えて欲しい、ということで、国家試験はこんな問題を出題してたんでしょうね。
さぁ、どう考えますか。
ソーシャルワーカーとしてのポイントは「全ての国民が健康で文化的な最低限度の生活を送ることができるようにするために」ってことですよ。

正解 2

タイトルとURLをコピーしました